学生の頃、初めていった英語圏への海外旅行で、自分の英語力のなさを痛感しました。文字として書いてある英文は何となく理解できるのに「聞いても理解できない」「思っていることを話せない」「発音が変で相手に通じない」の三重苦でノックアウトされました。
中学校1年から、当時までで10年近く「英語」という教科を学習しながら、なぜこうも通じないのか。自分の「英語」とは一体なんなのか。ショックやら、悔しさやらで旅を満喫する気持ちにはなれず、しょぼくれて成田に戻ってきた記憶があります。
その後はリスニングを強化したり、英会話教室に通ったりもしましたが、結局、今でも英検2級どまり、会話はブロークンレベルです。日本の英語教育に異を唱えるつもりはありません。でも、こんなに通じない語学学習には正直物足りなさ、そしてバカバカしさを感じます。もう少し「生きた英語」を身に付ける環境を整えるべきだと思いますし、同時に日本社会から、まるで使えない英語の代表格「カタカナ英語」を追放してほしいと切に願います。
音で通じなくて、なんの語学?
たとえば「main」という単語。発音で言えば「メイン」が近いです。ですが新聞表記では「メーン」としてる新聞社がほとんどです。なんですか、今時、この「メーン」とは? 誰得なのでしょうか? 文字として表現することばかりに一所懸命になって、言葉として伝える、伝わることの大切さを見失ってしまったのでしょうか? 脳科学者の池谷祐二さんは「animal」は「アニマルではどこにも通用しない。エネモウの方が正しい」と指摘していますが、全く同感です。
総合的な英語力で考えると、日本の英語力はそんなに低くないと思います。でも語学レベルでは下から数えた方がはやいとすら思えます。もともと引っ込み思案な国民性もあるでしょうが、語学なんて所詮は「聞いてなんぼ」「話してなんぼ」「通じてなんぼ」の世界。「正しいかどうか」より「伝わったかどうか」のつまるところは「音」の世界の話です。
日本の英語教育では文法やイディオムなどが重視され、それ自体はとても素晴らしいことだと思います。ただ、「読み書き」の世界に閉じこもっているのがガラパゴスっぽくてムズムズしてきます。よく、幕末に期せずして渡米したジョン万次郎さんの「掘ったイモいじくるな(What time is it now?」
を笑い話のように引き合いに出しますが、ジョン万次郎さんの例は「音」を意識した素晴らしき先例であって、決して笑う場面ではないはずです。
欧米至上主義ではなくユニバーサル言語として
「英語!英語!」と叫んで「欧米至上主義者か」と突っ込みまれそうですが、私は決してそうではありません。ただ単に英語は便利な言語としてマスターしておいてもいいんじゃないか、というだけです。英語は日本語に比べれば遙かに簡便な構造をしていますし、覚える文字はアルファベットだけで事足ります。そして、どこへいっても取りあえず通じるというユニバーサル性が素晴らしいと思います。
私もちょっとだけ被災した東日本大震災でも、世界各国の救援部隊が被災地で大活躍してくれましたが、その現場で使われていたのは「英語」でした。そこに国籍や肌の色の違いはなく、心の底から人間の素晴らしさ、優しさに感動したのですが、緊急時になればなるほど、「自分の思いを相手に正しく伝える」ことはとても大切になってきます。まるで役に立たない「ウォーター」ではなく「ウワラ」とでも教えた方が危機管理上もとても有効だと痛切に思います。
ローカルな言語はローカルな言語として方言も含めて大事にしていきましょう。でも、その一方で、世界中の誰とでも、とりあえずの意思疎通はできる手段として英語をマスターしておくことは決して損ではないと思います。日本での読み書き以外、まるで役に立たない「カタガナ英語表記」はせめて発音に近い表記にして、音として通じることをもっと大切にした方がよいのではないかと強く感じます。