筆者は「怒り」がとにかく苦手です。怒りの感情自体は否定はしません。世の不正や不公平、不義理、理不尽などに正しく怒ることはとても大切な事だとは思います。筆者が苦手なのは「怒り」の感情を露骨に自分の外側にぶちまけ、他人を抑えつけたり、言うことを聞かせたりするような人達が用いる「ツールとしての怒り」、あるいは見境なしに「すぐカッとなる、チープな怒り」です。
そこまで追い詰めなくても
育児とか夫婦仲、いじめ、指導、しつけとか、いろいろな考え方があると思うのですが、結構、怒りとその延長線上の感情にまつわるエピソードがニュースなどに取り上げられますね。
先だって、コンビニでアイスをねだる男の子に「ふざけんなてめぇ!」と周りがギョッとするほどの怒鳴り声を上げているパパさん?がいらっしゃいました。何かしらの伏線があって、アイスのひと言が引き金になって爆発したのかもしれませんが、顔を真っ赤にして、歯を剥き出しにする姿は見ていて楽しいものではありません。
「てめえ、この間、車ん中でアイス食ってベトベトに汚しただろうが!」
「腹も壊して、その後、晩飯も食わなかったんはどこのどいつだよ!」
「そんなに食いたいなら、勝手に食え! ただ、もうそんなガキは要らねぇ」
「おら、食えよ、早く食えよ! アイス買ってやるから、それもってどっかいけ!消えろ!」
正直、聞いていて怖かったです。親のしつけの一環として、アイスを我慢させるという考え方は分かります。あまりに子どものおねだりがしつこいと「こら」と怒る気持ちも理解できます。
ただしそれは叱ることであったり、諭すことであったりであり、怒るのとはまた違うものです。怒なり声とガンガン追い詰めていく話し方はどうなのかと…。幼稚園か小学校低学年とおぼしき男の子にトゲトゲしく怒りの感情を剥き出して…一体その先に何があるというのでしょう。
言い方ひとつの部分も
コンビニのパパさんの言い分も分析していけば、よくある光景ですよね。同じようなシーンでアイスを我慢をさせるご両親やおじいちゃん、おばあちゃんなんてたくさんいらっしゃると思います。言い方ひとつの部分も大きいのかなと。
要は大人の怒りという強力な「力」で抑えつける、言うことを聞かせるという発想が短絡的なのかもしれません。怒りでコントロールするというよりも、子どもになぜ今ここでのアイスがだめなのか、可能ならば理解、納得させて諦めさせるというのが目標とすべきところで、力を発動するのは「最終手段」にとっておけたらすばらしいですよね(育児がそう簡単にいかないのも分かりますけれど、あくまで理想で)
いつか壊れるような
「喜怒哀楽」とは昔の人もさすが、よくいったもので、人の感情をあらわすのにとても特徴的な気持ちがまとめられています。忍者の心理術では、これに「恐れ」を加えた「喜怒哀楽恐」を巧みに操る「五車の術」が有名ですし、ディズニー/ピクサーのアニメ映画「インサイドヘッド」では「喜び」「怒り」「嫌悪」「恐れ」「悲しみ」といったよく似た感情分類を元にキャラクターが設定されていました。
感情は、人々が生きていく上で必要なもので、冒頭で述べたように「怒り」もまた大切な感情のひとつであると思います。ただそれが、人を操るツールとして使われるのであれば、それは脅しや恐喝です。いっときは言うことを聞かせることが可能でしょうが、やられた側にはじわじわと反撃のエネルギーが蓄積されていき、いつか決壊の時を迎えるような気がしてなりません。
安易に手当たり次第に周囲に怒りをぶちまけ、「自分王国」を作るのは勝手ですけれど、相手の気持ち、存在を無視した、その王国はじつに脆いような気がします。